Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

K

批判的言説の可能性および現実性への問いは、現在深刻な位置づけを与えられるにいたった。こうした事態の端緒に、ミシェル・フ-コ-が提示した問題設定が、我々の思索を要求する一つの課題として存在している。だが彼は、この課題を固有なカントの読解作業を通じて、『言葉と物』において設定した。この問いあるいは課題は、なお無際限に開かれているように思われる。そこで我々は、カントとフ-コ-の接点を形成する問題系を、『言葉と物』第二部、7~9章の読解を核に取り出し、その問題系に基づいた以後のカント論に対する序説 Prolegomena にしたい。
 
1.変換の諸様態――同一性の表 tableau の解体 
 表とは、「諸存在に対する秩序づけ、分類、それらの相似と差異がそれによって指示される名称による区分といった操作を思考に許す」(Michel Foucault,“Les mots et les choses.”Gallimard,1966.p.9. 『言葉と物』渡辺一民/佐々木明訳 新潮社 以後の引用及び参照箇所は全て同書からのものであり、その都度 p.… の形で示す。) ものである。この表の解体とともに「一般文法、博物学、富の分析」(p.229.) が消滅する。そしてこのとき新たに、組織化の原理としての《類比》と《継起》が出現することになる。すなわち、クロノロジ-/年代記から《歴史》による類比関係の時間的系列化という場面への変換が成立することになる。(cf.p.231.) 「歴史の時代」が切り開かれるのである。
 新たな空間は、秩序、同一性、自然から歴史、起源、回帰という移行がそこにおいてなされる場である。この移行とともに、経済学、生物学、文献学あるいは言語の学が労働、生命、言語の発見に対応して誕生するが、この「発見」が含意するのは、これらそれぞれの学において「表象の分析に還元しえない次元の原理」(p.237.) が設定されたということである。どういうことだろうか。
 それぞれの学において主題化される「次元 ordre」とは、次のようなものである。
 α.「資本と生産体制の時間」(p.238.) これは、自律的ないわば「一つの組織体に内在する時間」(ibid.) である。〔経済学〕
 β.「《組織》」(p.239.) これは、「諸特徴の階層秩序」(ibid.) 、「機能」(p.240)、「生命の概念」(p.241.) 、「分類(組織空間)と指示(名称体系 nomenclature)とのずれ、歪み」(p.242f.) という四つの局面において、「分類法の基礎」(p.239.) となる。問題となっているのは、身体の表層と深層との、あるいは可視的なものと不可視なものとの関係であり、この「関係」が一次元的表に亀裂をもたらす。〔生物学〕
 γ.言語 langage 「表象固有の運動に最も深く結びついたもの」(p.245.) としての古典主義時代の言語すなわち「言説 discours」に代わって、もはやそれに対して外在的となった表象のレベルとは独立した内的規定を有した《言語》が分析の対象となる。「屈折
flexion」(p.247.) という「中間的形象」(iid.) の分析を通じて、「純粋に文法的なものの次元が出現する」(p.248.)。 内言語的な歴史性がいまや発見されるのである。〔言語学〕
 以上の変換=出来事は、すべて「表象とそのうちに与えられるものとの関係に関与している」(p.251.) 。だが、この関係の主題化は、「物、それらを分節化する空間、それらを生産する時間」(p.252.) と「純粋な時間継起としての表象」(ibid.) との解離を明らかにする。「表象は物と認識とに共通な存在様態をもはや規定しえなくなりつつある」(p.252-253.) のである。
 ところで、こうした危機に互いに逆方向から対処しようとするのが、観念学と批判哲学である。転換点としての「カントの批判哲学は(……)我々の近代性の発端をしるしづけている」(p.255.) 。近代性とは、「表象の空間の基礎、起源、限界」(ibid.) の問題化がそこで可能になる場なのであり、また同時に、「生命、意志、言葉 parole の哲学」(p.256.) が成立する場なのである。ここでは、労働、生命、言語の力のレベルにおける、すなわち「客体の側における総合」が探究の焦点になるのであり、「経験の可能性の条件が、客体とその実在の可能性のうちに求められる」(p.257.) ことになる。このように、労働、生命、言語は、フ-コ-によれば客体の側における「超越論的なもの des transcendantaux」(ibid.) として出現するのである。
 こうして、近代性という「関係」は、アポステリオリな総合と超越論的なものとの不可避的な関係、さらには「形式的な場と超越論的な場の関係」(p.260.) 、そして「経験性の領域と認識の超越論的基礎との関係」(ibid.) を思考の課題として生産する「関係」なのである。この課題に応えようとするあらゆる試みが、人間学的公準の成立という考古学的出来事とまさに不可分なものであり、超越論的反省から「反-哲学 contre-philosophie」(p.261.) への転換に対応していることが明らかにされる必要があろう。そしてこの思考の課題こそが、今なお開かれた問いを形成するものなのである。

2.擬-超越論的なもの:《quasi-transcendantaux》 と言語の客体化
 カント以後の《マテシス mathesis》(あらゆる学=知の「普遍数学」化の試み)の解体によって、古典主義時代の表のレベルは、労働、生命、言語という擬-超越論的なものの「組織、体系といったある種の総合の諸効果」(p.263.) に他ならなくなる。カントの《批判》以後、絶えず「起源、因果性、歴史」(ibid.) が問題になるが、この主題化の作業は常にあの総合的統一のプロセスの解明を標的にしていたわけである。そしてこの解明は、それ自身上記の三項の関係の思考=総合という形をとる。この解明作業は、むろんカントにおいて人間学の体系的構築という課題の枠内で明確に自覚されていたと言えよう。しかし、今日超越論的統覚と身体との関係がなお問題となり続けているのは何故なのか。フ-コ-によれば、近代性を形造る新たな知 savoir はいずれも人間学的公準を完全に脱却することは出来なかった。従って、既述の学=知は、この公準の限界を総合的統一の主体=統覚の水準の擬似カント的な変換作業において明らかにするはずである。以後、・で見た変換の諸様態をこれらの知による近代性の解読という側面から分析することにしよう。
 α.価値生産過程/作用としての労働による総合
 起源、因果性、歴史は、総合的統一の過程としての労働によって連接される。「リカ-ドは、思考の可能性の条件という水準において、価値の形成と価値の表象性とを分離することによって経済の歴史への連接を可能にした」(p.268.)。 「経済はその実定性において、もはや差異と同一性の同時的空間にではなく、継起的生産の時間に連結されるのである」(ibid.) 。しかし、こうした解読は、「人間の自然的有限性についての言説としての人間学」(p.269.)に依拠することになる。人間の歴史的有限性あるいは有限的歴史の《規定》は、「稀少性」(p.268.) と「進化」(p.270.) の概念に関与し、それぞれの概念の延長線上でリカ-ド、マルクスによる解読作業が行われる。こうして、知が有限性と歴史性との両者を人間学的な場で思考しようとするとき、それは「系列、連鎖、生成といった様態で成立させられるのである」(p.274.) フ-コ-は、以上のような事態のうちに「弁証法と人間学とのもつれ合う約束」(p.275.) とニ-チェによるその解体を見ている。
 β.組織概念の分類学的機能からの離脱
キュビエ以降器官は機能へと従属し、機能は見えるものと見えないものとの恒常的な媒概念となる。「一般的タクシノミア taxinomia[普遍的分類/命名学]の企て」(p.280.) の消滅は、表から関係への、そして「生命という総合概念への移行」(p.281.) を含意するが、この概念が関与するのは、生物の内的空間と外的空間との、可視的分散性 dispersion と潜在的統一性との関係づけという新たな試みに対してである。(cf.p.281f.)  今や「有機体」の運動空間、「非連続的自然」、「生活条件の空間」(p.287.) 、すなわち延長体の一般法則から自律した空間が思考の対象となるのである。我々はここに空間性と歴史性(あるいは時間性)の交差を見ることが出来よう。そして、この交差において導入される「生命に固有の歴史性」(p.288.) とともに、サドにおける「動物性」、殺りく、悪、反自然の空間、言い換えれば力と暴力、生命と存在の対立という次元が開かれる。(cf.p.290f.) 空間性と歴史性との交差点において見いだされた力のレベル、つまり生命の経験を探究する「野生の存在論」は、「存続への意志」のみを明らかにする。これは認識批判としての価値を持ちうるが、現象を伴わない純粋な意志を明らかにすることによって、むしろ現象の存在を消滅させるという機能を持つのである。(p.291.)
 γ.言語の内的構成――固有の存在の獲得
 言語学の誕生とともに、「種々の言語において異なるその固有の原理」(p.295.)、すなわち「文法的構成には、言説の意味 signification に対して不透明な規則性がある」(ibid.) という事実が発見される。そして、この規則性の発見が言語の内的変化の考察へと導く。さらにこの内的/歴史的変化の法則の規定が、「語幹 radical の新しい理論」(p.300.) を確立させる。だがボップによる言語の分析は、言語の内的自律性と体系性を、むしろ語る主体の意志によって根拠づける。言語表現の根拠は、それに対して外的な客体=物から主体の意志と力の側に移行したのである。語る主体の措定という人間学的公準への依拠によってこそ、言語は「あの大いなるクロノロジ-的連続性」(p.306.) から離脱することが出来たのであり、言語体系に内在的な歴史性の考察が可能になったのである。

 ここで、フ-コ-に従って言語と生物の差異を見ておこう。次のように言える。言語の歴史はその歴史性に内在する。〔自己内属性〕 これに対して、生物の歴史はその歴史性に外材的である。言い換えれば、「生物の諸機能とその生存条件との間の一定の関係」において存在する。〔(時間-空間的相互内属性)〕 従って、ここには総合的統一という規則化=系列化の過程に対する異なった解読があるのであり、この差異が言語の客体化と人間学的公準の危機という出来事に深く関与することになるのである。
2-2.
 フ-コ-は、近代性の解読作業の諸様態の記述を《言語の客体化》という事態の考察で終える。すでに見たように、言語の自律性の根拠が主体化されたのであれば、この主体化に基づく言語の客体化とは、言語のそれ自身に対する対象化、すなわち言語主体の主体化を含意することになろう。言語と物(真理)との関係は、以後決定的に言語と言語の関係へと変換されたのである。言い換えれば、自己対真理の関係が自己対自己の関係へと決定的に変換してしまったのである。他のあらゆるもののあいだで「認識すべき客体となった」言語は、この自己対自己の関係を自ら思考する使命を負う。従って、言語のこうした「水平化 nivellement」(p.309.)は、「科学的言語の中性化 neutraliser」〔実証主義、形式論理学〕、文献学/解釈学による代償を必要とするのである。(cf.p.309-311.) すなわち、言語の自己関係の解読という課題に対して、「解釈と形式化」という「二つの相関的技法」が要請されるのである。(cf.p.312.) 〔フロイト、ラッセルおよび現象学と実証主義〕
 だが、フ-コ-によれば「言語の水平化に対する最も重要な、また最も予期せぬ最後の代償は、文学の出現である」(p.312-313.) 。言語は「書くという純粋行為に完全に依拠する、近寄よりがたい独立した形態のもとで再構成された」(p.313.)。
「文学は(……)根源的な自己完結性の中に閉じ込もる」(ibid.) 。この自己完結性への、すなわち他動詞的性質から自動詞的性質への変換が、既述の言語主体の主体化にどのように関与しているのかが問われなければならない。

3.経験的-超越論的二重性――表象の自己二重化から経験の自己二重化へ
 以上見てきた近代性への変換の諸様態は、カントが《批判》において主題化した総合的統一の過程を解読するという課題を担っていた。このように、総合的統一それ自身の根拠が問われることにおいて、経験的かつ超越論的な水準が要請されるにいたる。フ-コ-に従えば、それは労働、生命、言語というそれぞれの過程のある種の交差点に位置づけられるはずである。だが、カントにおける超越論的統覚という水準は、そもそも労働、生命、言語の主体へと変換されるべきどのような理由があったのか。しかも、それが何故経験的-超越論的二重性の場であると言われるのか。我々は、次にフ-コ-自身による近代性の解読作業を見なければならない。
3-1.
 既述の言語の自己内属性それ自身の対象化は、言語主体の主体化として自己対自己の関係を含意していた。こうした事態の不可避性は、古典主義時代の言説と物の表象との自然的紐帯の消滅という基本的な事態を背景に持っている。以後、言語は自律的分散を始めることになる。フ-コ-が、ベラスケスの不朽の傑作《侍女たち》のうちに見た「本質的な空白」(p.31.) ――《王の場所》は、まさにこの自律的分散を不可能にするとともに可能にするものに他ならない。すなわち、この空白とは「表象を基礎づけるものの、つまり表象がそれに類似するものと、その眼には表象が類似物に他ならないものとの必然的な消滅なのである。この主体そのもの――それは同一のものである――が省かれているのだ。そして、それを鎖でつないでいた関係からついに自由になって、表象は純粋な表象(作用)として示されることが出来るのである」(ibid.) 。古典主義時代においては、このような主体、同時に表象の主体でありまた客体でもあるこの主体の場所は、隠蔽されそれ自身決して現前していなかったからこそ、言語の分散は回避されていた。だが、まさにこの王の場所の主題化/解読という課題こそが「言語の分散状態」(p.318.) を可能にする。フ-コ-によれば、「表象と物とに《共通な言説》としての古典主義時代の言説は(……)《人間学》となるであろう何かを絶対に排除した」(p.322.) 。従って、この王の場所に表象の自己二重化の主体として隠蔽され、今や主題化されることで誕生したのは他ならぬ《人間》だったのである。
 次のように要約できよう。表象の自己二重化の主体としてのコギトの存在様態に対する根本的な疑義の成立が同時にエピステ-メ-の変換という出来事をもたらす、と。

 フ-コ-は、以上のように危機に陥った人間学的公準による近代性の解読の試みを《有限性の分析論》と呼ぶ。「知にとっての客体であるとともに認識する主体でもあるその両義的位置とともに現れる」(p.323.)人間が主題化されるとともに、表象の可能性の条件が生物、交換と利潤と生産、言説と文法の可能性の条件として探究される。(cf.ibid.) カント以後総合の諸効果となった表象は、「生命と生産と言語の諸法則に従って結び付けられる」(p.324.) のである。だが、これら諸法則の主体であるはずの人間は、有限的存在者としてそれ自身これら諸法則によって決定されている。そして、こうした「人間の有限性は(……)知の実定性において告示される」(ibid.) 。 すなわち、表象の可能性の制約は、もはやある原初的な規定根拠としての《規則の能力》に求められるのではなく、むしろ有限的人間の経験という場それ自体、あるいはこの経験において交差する実定的なものなのである。 新たに見いだされた有限性の場としてのこの経験のレベルは、だが、ある二重性を含意している。以後この経験の自己二重化がきわめて困難な問題となるのである。我々はここで、実定性(これは現実化の過程としての肯定的な力に関与するものであるが)という表現で指示されている事態と「人間固有の有限性」(p.325.) との相互交錯という場に立たされている。思考の位置する場のある変換によって、我々は表象の可能性の条件と現実性の条件との両者の関係をさらに思考するべく強いられるにいたったのである。
3-2
 有限的人間の経験において交差する実定的なものという先の表現を、フ-コ-の記述に従って次のように言い換えることが出来よう。すなわち、同一の人間の経験に対して、肉体、欲望、言語が与えられている、と。「つまり、人間がそこで自らが有限だと学び得る実定的な諸形態の各々は、人間固有の有限性を基礎にして初めて人間に与えられるものに他ならない」(p.325.)。人間の有限的経験という場は、表象の可能性の条件として見いだされたはずの実定的なものが、そこで事後的に初めて現実的なものとして、言い換えれば表象の現実的な諸条件として与えられる場となる。この《経験の有限性》は、「無際限なものという逆説的な形態のもとで」(ibid.) 労働/生産、生命、言語の「存在様態」を同じこの経験において与えるのである。従って、「この有限性は、実定性の最も純化された本質ではなく、そこから実定性の出現が可能になっているものである」(ibid.)。これら実定的なものは、この経験という場のいわば自己二重化の所産として、同時にこの経験を(従ってまた《人間》を)無際限に規定する。つまり「限界は、人間に対して外部から課せられた規定としてではなく(……)人間固有の事実にのみ基づき、あらゆる具体的限界に向かって開かれている基本的有限性としてあらわになるのである」(p.326.) 。
この記述によって、我々は、フ-コ-による近代性の読解が根本的にはカントの経験の形而上学がもたらしたある決定的な変換の解読に他ならなかったことを理解できよう。

 カント以後展開することになる有限性の分析論は、経験的なものと超越論的なものとの《分割》を《反復》へと置き換える。両者は、総合的統一の過程としての有限的経験の成立過程において相互に反復されるものとなるのである。フ-コ-によれば、「そこにおいてこの分析論が完全に展開するであろう空間は、反復の空間――実定的なものと基本的なものとの間での同一性と差異の空間であろう」(p.326.) 経験の有限性を告知する実定的なものは、この実定的なものによって規定され現実化するその都度の経験において、それ自身の規定された現実性を事後的に初めて得ることになる。経験のこうした自己二重化の過程(これはその都度の規定された経験の現実化 actualisation の過程であろう)において、あるいは、フ-コ-の言葉に従えば「《同一なもの》の形象において、有限性とは実定的領域とそれらの基礎との同一性と差異なのである」(p.326.)
 こうして《人間》は、自らの経験のただなかで分裂/二重化の危機にさらされる。このことが、「近代の反省」を「差異が同一性と同じものであるような、同一なものに関するある種の思考へと赴く」という課題に直面させる。(cf.ibid.) そしてこの思考が目指す「同一なもの」とは、「実定的なものの基本的なものにおける反復」(ibid.) という事態、すなわち、人間の存在様態としての有限的経験それ自身なのである。これ以後この経験の過程に定位することになるあらゆる思考は、「超越論的なものが経験的なものを反復する」(ibid.) という事態の解読を共通の課題とするのである。
3-3.
 以上見てきたように、経験の過程それ自身を思考するという無際限の課題が、《同一なもの》の思考に対して課せられる。経験の過程におけるこの過程それ自身の自己解明というこの課題こそが、近代性の発端に存在するのである。従って、以後探究の焦点となるのは、この経験の主体の《主体化》の諸様態、すなわち、この主体の経験がその一定の/規定された自己同一性においていかにして成立するのか、ということであろう。換言すれば、経験の主体をある種の実定性(労働、生命、言語はそれの基本的なカテゴリ-となる)において構成し、同時に規定された実定性の領野を生産するような水準を、さらに思考しなければならない。近代の思考は、このような場、すなわち自己の経験という場をその成立過程において探究するという課題を負う。(言語主体による言語の自己経験の考察など。) そしてこの自己経験の成立過程に対して、(その歴史が歴史性に内在するような)自己完結的な歴史性が求められることになる。だがフ-コ-は、明らかにこの自己完結性に対する要求の解体を一貫して企てている。そしてこの作業は、カントによる超越論的なものと経験的なものとの分割という《批判》の試みへの対応として理解され得る。フ-コ-は、既述の自己対自己の関係という一貫したテ-マを、自己経験の歴史性の解読としてどのように展開し得たのか。そして、このような探究はいかなる批判的問題系へと導くのか、これらの問いが残されている。

4.距離あるいは偏差――時間=空間的相互内属性 
4-1.
 ・で取り出された基礎的な問題設定を視野に据えながら、フ-コ-による「超越論的=経験的二重体 doublet empirico-transcendantal」(p.329.) としての《人間》に関する記述をさらに解明してみよう。次のいくつかのテ-ゼに要約出来る。
 α.「我々の近代性の発端は(……)《人間》と呼ばれる経験的=超越論的二重体が構成された日に位置づけられる」(p.329f.)
 β.この変換を経た分析論は、人間認識の《自然》及び《歴史》の実在性を明らかにすることを目指す。
 γ.これら分析論は、「主体の理論」への依拠を回避するが、「客体の秩序に属する真理」(p.331.) の探究をそれに代替する。〔真理そのものの分割〕
 δ.だがこの《分割》は既に見た《反復》に基礎をおいている。すなわち、「経験的なものを超越論的なものの水準で価値あらしめる全ての分析に内在する揺れ」(ibid.) を持つ。〔コント、マルクス〕
 ε.δの試みに対抗して、「肉体の空間と文化の時間、自然の諸決定と歴史の重みとを互いに連絡させる」(p.332.) ことを目指す「体験の分析」(ibid.) が出現する。〔現象学〕
 ζ.だが、これら経験的=超越論的/批判的分析の素朴かつ不安定な試みはいずれも人間学的水準を越えることは出来なかった。
 これらの分析が解明することを目指す人間認識の自然及び歴史(しかも相互に連絡したものとしての)は、自己経験の成立過程という《反復》の場であるが、この反復の場は既に我々が《生物》において見た時間=空間的相互内属性という固有性を有するものである。この相互内属性をあらゆる分割の手前で思考しなければならない。少なくとも我々は、自己完結的な歴史性の解体を目指すフ-コ-にとっての、この課題の根本的な重要性を推測することが出来る。従って以後我々は、フ-コ-がこの課題に対してどのように対処しているのかを見る必要があろう。
4-2.
 総合的統一の過程の最終的な根拠として措定された《超越論的統覚》は、それ自身時間=空間的総合という様態をとる一つのAktus[働き]である。この過程/Aktusは、時間=空間性の一つの《様態》なのである。フ-コ-は、このコギトの存在様態そのものの変換に照準を合わせる。すなわち、コギトというAktusに基づく時間=空間的総合の諸様態/変換を、それの時間的総合と空間的総合との相互内属性の諸様態/変換として考察しなければならない。ところで、この相互内属性は、常に一定の変換を受容するのならば、同時にある種の偏差、差異性をも含意するはずである。従って、自己経験の場としてのコギトの存在様態には、時間的総合と空間的総合との、あるいは時間性と空間性との反復――それら相互の同一性と差異という事態が内在しているはずなのである。
 フ-コ-は、次のように言う。
 「近代のコギトにおいて問題となるのは、(……)自己に対して現前する思考と、思考の内で〈思考であらざるもの〉に根付いているものとを、分離すると同時に結び付ける距離を、その最大の規模において価値づけることである」(p.335.)
 この距離あるいは偏差において、コギトと〈思考されぬもの〉との反復が宿る。経験的=超越論的二重体としての人間の誕生は、この距離/偏差の発見と同時的なものなのであり、「人間と〈思考されぬもの〉は、考古学的水準においては、同時期のものなのである」(p.337.) この〈思考されぬもの〉は、「人間との関係において《他者》」(ibid.) だからである。(An sich,Unbewuβte,etc.) こうして、近代の思考の対象は、《他者》=〈思考されぬもの〉となる。思考それ自身の運動が、経験の自己二重化の運動として距離/偏差を内在させるものとなった今、「本質的なことは、思考がそれ自身にとって、その作業の厚みにおいて、知であると同時に、思考が知っているものの変様 (modification)であり、反省であると同時に、それについて思考が反省するものの存在様態の変換 (transformation)であるということであろう。(……)近代の思考は、人間にとっての《他者》が、人間と《同一なもの》となるはずのあの方向へと進んでいるのである」(p.338f.)
 近代の思考のこの《同一なもの》への不可避的方向性は、同時に自己完結的な時間=空間性を目指すものである。すなわち、時間的総合と空間的総合との完全な対応/相互内属性へと向かうものとなる。時間的系列化と空間的系列化の両者は、完全に互換的なものとなることが要請されよう。時間性と空間性との複合的多様体として歴史性を新たに発見した我々は、その多様性の彼方/起源へと向かうことになる。表象の自己二重化から経験の自己二重化への変換は、この「起源との関係」(p.339-340.)の変換に対応している。
 だが、有限的経験の過程における自己完結的歴史性の追求は、フ-コ-によれば、起源の後退との戦いとしてのその奪回作業に他ならない。では、この戦いが含意するものは何なのか。
4-3
 近代の思考が目指す自己完結的歴史性の《起源》は、フ-コ-によれば、「原初的な折り目(pli premier)」(p.340.)と呼ばれるものの派生体としてあらわになる。ある規定された根源的な起源から歴史は開始されるのではない。換言すれば、我々は自己完結的な歴史性を、あるいは歴史の常住不変性を規定されたものとして認識することは出来ないのだ。
 従って、次のように言われる。
 「クロノロジ-的/年代記的時間継起の展開が一つの表の内部に宿り、そこで巡歴をなすのにすぎないとするような思考において、出発点は現実の時間の外部と同時にその内部に存在する。すなわち、その出発点こそ、それによってあらゆる出来事が生起し得る、あの原初的な折り目に他ならない」(ibid.)
表象の自己二重化に基づいて可能となる表(tableau)の水準は、この自己二重化の運動それ自体を成立させる原初的な折り目から派生/生起する。純粋かつ等質な同時性の空間として錯視された表の《空間》は、実はきわめて固有な歴史性/時間性と空間性との複合的多様体に基づくものとして見い出される。すなわち、そこでは時間的系列化と空間的系列化の両者が互換的であり、しかもこれら両者の相互的な変換が、構造的不変性を保つ(従って対称性を有する)という固有な時間=空間的相互内属性が既に成立していなければならない。こうした特異な事態のもとでのみ、近代の思考にとってはもはや本来的に仮象であるはずの、常住不変的な歴史の起源が措定され得る。このような、実に古典的な時間=空間性に基づく表象のレベルは、既に表層的な効果(すなわち、原初的な折り目の外延的-質的展開)としてそれ自身としては解体している。あくまで特異的かつ表層的なタブロ-の水準が第一次的なものとして錯視されること、このことが王の場所=人間の隠蔽を果たす。つまり、自己経験の成立/現実化の過程そのものは決して知覚され得なかったわけだ。この経験の自己二重化の運動それ自体は、恒常的な《形式》として措定され経験の主体に対しては現前し得ないものとされていたのである。(だが少なくともカントは、こうした時間性と空間性との相互内属性を《形式》の措定という仕方で初めて際立たせた。)
 それでは、こうした空間=時間(espace-temps,space-time)のモデル、すなわち、互いに対応しいわば鏡像関係にある時間と空間のモデル(そこでは、時間の空間化と空間の時間化とが同時に成立し得よう)の解体/変換は、フ-コ-によってどの様に記述されているだろうか。
 有限的経験から出発する近代の思考にとって、「人間は既に造られている歴史性と結びついて初めて見い出された」(p.341.)ものである。この思考が思考するべき人間とは、ある固有な折り目の所産として、その都度の自己経験の現実化の過程において構成されたものである。この経験の過程を規定しようとする近代の思考は、それ自身がそこから派生したこの折り目を、自らの経験そのものの内部と外部との接点において思考しなければならない。「人間こそ、(……)そこから出発して時間一般が構成され、持続が流れ、物がそれ固有なときに出現できる、そのような入り口(ouverture)」(p.343.)だからである。こうして近代の思考は、「そこから時間が由来し、クロノロジ-も歴史もなく出現する裂け目」(ibid.)を目指し、時間の「中断(suspens)」(ibid.)、破壊を試みる。一切の固有に規定された時間(より正確には、時間=空間性)の彼方に、人間を絶えず生産しまた分散させる力が発見される。だが、「このような力は、人間にとって外部にあるものではない。(……)その力こそ、人間固有の存在の力なのである」(p.346.) 
 ところで、この人間固有の存在の力が位置する経験の自己二重化、あるいは「経験的=超越論的二重化(redoublement empirico-transcendantal)」(p.347.)の運動に固有な時間=空間的内属性を、先に我々は生物の固有性として言語の自己内属性との対比において見い出した。フ-コ-によれば、「物(……)と語(……)との関係の次元において機能してきたすべてのものは、言語の内部に奪回され言語の内的法則性を保証する任務を課せられる」(p.349.) ここで次のように言うことが出来よう。近代の思考が直面する「起源の後退とその回帰」という戦い/反復の場において、既述の相互内属性と言語の自己内属性との間の絶え間のない振動が存在する、と。フ-コ-は次のように言う。
 「(……)西欧文化のなかで、人間の存在と言語の存在が、共存し互いに連接し合うことは決してなかった(……)」(p.350.) にもかかわらず、と言うよりもむしろそれゆえにこそ、人間とその他者との同一性、すなわち同一なものの解明が、近代の思考の不断の課題となる。何故なら、「同一なものを隔たりという形態のもとで与える反復こそ、おそらく、時間の発見が性急にもそれに帰せられている、あの近代の思考の核心にあるものにちがいない」(p.351.)からである。《思考の経験》そのものの核心に、偏差と反復の運動が様々な様態において組み込まれているのである。むしろ、思考の経験そのものがこの運動/過程なのだと言うべきであろう。従って、我々はこうした観点からフ-コ-以下の記述を理解するべきなのである。
 「事実、もう少し注意して見るならば、古典主義時代の思考が、物を表の形に空間化する可能性を、自己から出発して自己を想起し二重化し、連続的時間から出発して同時性を構成する、あの表象の純粋な継起の特性に関係づけていたことに気づくはずだ。時間が空間を基礎づけていたのである。近代の思考においては、物の歴史と人間に固有の歴史性との基礎に現れるのは、同一なものをうがつ距離であり、それをそれ自身の二つの末端で分散させ集合させる偏差である。近代の思考に対し常に時間を思考することを可能にするのは――時間を継起として認識し、それを完成、起源、あるいは回帰として自らに約束することを可能にするのは――この深い空間性なのである」(p.351.)
 我々が考察してきた近代の思考への変換という事態――即ちこの思考の変換そのものの思考――は、古典主義時代の思考および近代の思考をともに根底から規定するこの距離/偏差としてあらわになる。この距離/偏差は、あらゆる思考の現実化の過程としての、時間性と空間性との複合的多様体であり、その都度一定の変換を《思考の経験》としてもたらすものなのである。

5.批判と自由への問い――歴史の造型
 フ-コ-は、彼自身の近代性の解読を要約するにあたり、既述の《経験的=超越論的二重化》という表現を、「経験的=批判的二重化」(p.352.)と言い換える。言うまでもなく、この二重化は、カントによる《人間とは何か》という「究極の問い」(ibid.)を端緒として顕在化したものだからである。経験的=批判的二重化とは、自己経験に対する批判的問いかけによる《折り目》の発見であるとともに、この《折り目》(の顕在化)それ自身であると言えようが、フ-コ-によれば、「このような折り目のなかで、哲学は新しい眠りを、《独断論》のそれではなく、《人間学》の眠りを眠ることになる」(ibid.) 即ち、「近代哲学の人間学的布置は、独断論を二分し、互いに支え合い制限し合う二つの水準にそれを分布することに存するのである。人間とはその本質において何かという批判哲学以前の分析は、一般に人間の経験に与えられ得るすべてのものの分析論となるわけだ」(p.352.)
 こうしてフ-コ-によれば、独断論の分割および「円環性」(ibid.)を生む、「人間学の《四辺形》」(p.353.)の根底的破壊こそが現代の思考の課題となる。「《人間学》は、カントから我々まで、哲学的思考を律し導いてきた基本的配置をおそらくは構成する。(……)しかしそれは、我々がそこに、それを可能にした開かれた空間の忘却と、次なる思考に執拗に対立する頑固な障害とを同時に認め、批判的様態に基づいてそれらを告発し始めたがゆえに、我々の眼の前で分解しつつある」(p.353.)
 従って、最後に問題となるのは、このような《批判的様態》による思考の経験の実践という課題であろう。即ち、批判の作業の可能性および現実性への問いかけがここで設定されざるを得ないのである。そしてこの問いは、同時にこうした思考の実践との根本的な関係における《思考の自由》への問いへと我々を導く。つまり、思考の経験の成立過程としての自己経験の過程において、ある固有な《批判的様態》が形成され、しかもそれが同時に自由な自己形成過程でもあり得る、ということが課題となる。有限的人間の存在様態としてのこの思考の経験は、既に見たように、反復――即ち実定的なものと基本的なものとの同一性と差異の場であった。これら両者は、絶え間のない反復のなかで同一性と差異を融和させようとするが、フ-コ-はこうした事態を権力と抵抗との互いに不可分な反復として探究しようとしている。こうして、生存の経験そのものである反復のいくつかのタイプが主題化されることになる。ここで更に、この反復における権力と抵抗との距離/偏差という局面とともに、それら両者の互換性という局面が指摘され得る。そして、これら両局面への不断の振動という困難な事態を見据えながら、次のように問うことが出来よう。フ-コ-の言う人間学的要請へと依拠することのないどのような権力と抵抗との反復が望ましいのか。そしてその反復を実現する生の様態は/技法はいかなるものであるのか、と。
 こうして、《批判》と《自由》への問いが、新たな生/反復の探究という作業、即ちある特異な自己経験の形成過程それ自身として反復されることになろう。つまり、この今なお無際限に開かれた問いの形成/反復という作業は、それを引き受ける者すべてが、[「歴史の」ではなく――引用者による付加]「自らの経験の歴史性の」形成過程として実践していくべきものなのである。フ-コ-は、この作業を《歴史の造型》という形で一貫して遂行しているのだと言えよう。自己完結的な歴史性の解体と新たな生の歴史性の構築とを目指す自由な造型行為こそ、我々の課題としてフ-コ-が提示しているものだからである。  
 
 さて、我々は以上の考察をカントとフ-コ-との接点を形成する問題系の摘出および展開作業として行ってきた。従って以後我々は、むしろカントにおける《批判》の形成を、彼がその構築を試みた経験の形而上学という《変換》の場において探究しなければならない。現在歴史への問いがかくも切迫したものとなっているのは、そして歴史の造型が緊急なものとなっているのは、まさにカントによる経験の形而上学の構築を契機としているように思われるからである。 

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